たいそうなタイトルだけれども、ちょっと考えてみるとわけがわからないよってなる。
俺がゲームということで漠然とさしているのは、まぁファミコンということにしておこう。
テレビがあって、ゲームを実行するコンピュータがあって、二つをつないでゲームする。
ここでは、いわゆるアナログでやるゲーム、ハンカチおとしとかスポーツは暗黙に省いている。
これって実はかなり狭義のゲームなんだよな。
ゲームをコンピュータゲームのことだとしても、まず時代が限定されている。
今はテレビが無くてもゲームを実行できるコンピュータは存在するし、据え置きゲーム機よりスマホゲームを第一に思い浮かべる人も多いだろう。
じゃあ、コンピューターで実行するプレイアブルなプログラムといったところで実は何の説明にもなっていない。
このプレイアブルってのが何のかがそもそもの問いだからだ。何を持って遊べるとするのか?遊べるプログラムは全てゲームなのか?
と考えるとゲームという言葉は、何を経由してリリースされたものかを示しているに過ぎないことがわかる。
いまならグーグルプレイのゲームカテゴリとか、PS4やWiiU向けのソフトウェアとしてリリースされたものであるとか。
であれば、問いをもう少し厳密に言い直す必要がある。
これが現象学的なアプローチ(あくまで自称)なわけだが、それでいうと俺の問いはこういいなおすべきだ。
人はどのようなプログラミングになら、それを使うこと自体を目的として、それに人生の時間の一部を費やすことをあえてするだろうか。
こういう風に問い直せば、俺の言うゲームが本当はどういうものなのかが垣間見える。
それは、こうだ。
ゲームとは、プレイすることによって何かが達成されるようなものではなく、プレイしている時間自体に価値を感じられるものだということ。
けれどもこれって、小説家の保坂和志が小説についてどこかで言っていたことに似ている。
つまり、小説だって音楽だって映画だって、それを読んでいる(あるいは聞いている、観ている)時間そのものを楽しむものだ。
しかし、それぞれ異なるジャンルであるわけで、それぞれのジャンルには固有の何かがあるはずなのだ。
それじゃあ、ゲームが、映画でも小説でも音楽でもなくゲームである固有の何かとは何なのか。
まるで振り出しに戻ったみたいだけれども、少し前進した気はする。
たぶん、ゲームがゲームである固有の何かとは、インタラクティブであるということではないかと思う。
それをプレイすること自体が目的であること、インタラクティブであること、そしてコンピューター上で実行するプログラムであること。
これらが俺が作ろうとしているゲームの必要条件ということになるだろう。
そして、この条件の中でもっともクリエイティビティが必要な条件は、プレイすること自体が目的であるという条件だろう。
これは外部に目的を持たないということなので、非常に難しいというか、プレイする人の主観と深いかかわりのある事柄なんだと思う。
そうだ、ゲームプログラミングがやっていることというのは、インタラクティブに入力を受け取って、プレイヤーの情緒を刺激することなのだ。
そしてそのプレイヤーはまず第一におれ自身である。
ただし、おれ自身の心にしか響かないようなものでは自己満足の域を出ない。つまり、食っていけない。
そこで、俺が本当に問わなければならないことは、以下の2点ということになる。
1.どんな事柄に、俺の情緒は強く影響を受けるのか。
2.それは、より普遍的なものか。
たとえば、この問いに対する答えによってゲームの良し悪しが決まるのであるとすれば、おれ自身が何らかの面白みを持った人間でなければ、面白いゲームを作り出すことなんて出来ないのではないだろうか。