【哲学的な何か】コミュニケーションギャンブラー

うっかり三日分も更新溜めてしまった。

実際は毎日更新してるわけじゃなくて、毎日更新してる。

サービスとして毎日更新をうたっているわけじゃなくて、あくまで自分に課しているだけなので、毎日分でなんら問題ない。

一日でも空けると、俺の性格上、なし崩し的に更新しなくなってくるのは目に見えているからね。

俺はいったい誰にいいわけしとるんだ、わはは。

今日はちょっといつもと毛色の違う話を書き留めておこうかと思います。

なんていうか、哲学的な何か。

最近、あることがありましてね、それについていろいろ心砕いたりしてた時間が、普段よりずっと多くありました。

でも、そういうことがあると、自然と自分自身の人生哲学というか、まぁ余計な冠は外してずばり哲学って磨かれていくよな。

それはほんとに貴重な経験であるわけで。

今回のでね、俺の哲学も久しぶりにブラッシュアップされたんだよね。

コミュニケーションって、博打に似てるなと。

人と人は100%完璧には分かり合えないっていう考え方がある。

その一方で、必ず分かり合える瞬間があるという考えもある。

俺の考え自体はどちらかというと、後者に多少の希望を抱いている考え方だったりする。

つまり、分かり合える方法、条件が必ずあるはずだって言う考えね。

俺は学生の頃、哲学科でドイツ観念論を先行していまして、まあ、かなりがちがちのカンティアナーなわけです。

人間の理性や感性には、アプリオリな制約というか仕組みがあって、その中で世界を認識しているって思ってるわけです。

今回の話題の焦点に絞ってもっとざっくりはしょると、何かがわかったっていう心の状態って、心が備えるある機能が働いたときなんだってところかな。

なので、ここに異なる2人の人間がいたとして、2人とも同じ機能を心に備えているのであれば、その同じ機能を同じように運用すれば、同じ「わかった」が得られるんだ、とこういう風に考えているわけです。

ただね、実際の世界は実はそれほど単純じゃなくて、俺の思想自体もそれだけで構成されているわけじゃなくて、たとえば、その上に現象学やヴィトゲンシュタインやらが、まぁいい加減な塩梅でブレンドされてたりするわけです。

そのあたり説明しだすと、考え整理するだけ数日かかりそうなので割愛しますが、結果として人と人が本当にわかりあうことは難しいっていうか、そもそも解り合ったところでそれを確認するすべがない以上、その問題自体が意味ねーのかなっていうような、まぁ、なかば諦めのような考えで落ち着いてたところだったんだと思う。

で、最初に述べたコミュニケーションが博打に似てるって話に戻るんだけれども。

やっぱり自分の心と他人の心の間はとても深い溝で分け隔てられてると思うのな。

その意味では、どこまで言っても人と人は分かり合えないって言うか、いつでも分かり合える正しい手段を人は持ってないんだと。

ただね、やっぱりそれだけじゃないと思うんだよね。

どうやったらその溝を越えられるか、そこに恒常的な道というか方法はないのな。

ないんだけれども、それは単にいつでも通用する方法がないだけで、実はちょうど運よく当たりくじを引くような感じで分かりあえる状態が訪れることもあるんじゃないかって思う。

というか、どこかでそう信じている。

しかし、そこは宝くじみたいなもんで、買わなきゃあたらない。つまり、試みてみなければ伝わる可能性はない、と。

で、コミュニケーションを試みるって言うのは、そのときの自分のプライドとか地位とか、本当は言いたくない秘密とか、隠し事とか、そういうものを賭け金にして、言語というゲームにおいて、相手に伝わる側に賭ける事なんじゃないかと思うとですよ。

賭けに負けると、賭けたものは没収。まぁ、単に伝わらなかったってだけで終わることもあれば、賭け金の大きさによっては、相手との関係さえ損なうことすらありえる。

でね、そこで大事なのは、そのコミュニケーションの博打性を受け入れるところから、入ることなんじゃねーかなとこう思った次第であります。

理不尽な博打ですよ。

でもその理不尽さを受け入れないと、伝わらなかった場合や、理解されなかった場合に必要以上に傷ついたりして、臆病になっていく気がするのな。

だからね、ここはまぁ、単に賭けが外れただけで、負けも勉強。

次ぎ賭ける時はもうちょっと場を読んで、適度な賭け金を妥当な目にかけてみると良いよ。

と、自分を慰めている今日この頃。わはは。

3年前

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