【雑記】ゲームの演出についての一考察

先日、やっと『ゼルダの伝説トワイライトプリンセス』クリアした。

プレイ時間はトータルで56時間くらいだろうか。

この時間中でいわゆるレベル上げに相当するようなルーチンワークはほとんどない。

ほぼすべての時間で、なにかしら新しいなぞやイベントに取り組んでいたような印象だ。

そして、エンディングのクライマックス感、カタルシスは息を呑むほどの完成度だ。

こんなゲームとはめったに出会えないと思う。

映画のラストシーンにたとえてもまだ足りない。

全てのエンターテイメントの中で最高の総合芸術とは、ゲームなんじゃないか。

そんな風に思えるほど、このゲームにはいろんなエンターテイメントの秘密が詰まっていると思う。

単にシナリオやストーリーが良かったってだけで説明がつくものじゃないんだよな。

ひとつ例をあげると、別れの演出。

とても重要なキャラクターとの出会い、冒険、そして別れという出来事があるとする。

演出に成功していないゲームでは、別れはただの記号に過ぎなかったりする。

ゲームの進行具合を示すものであったり、シナリオの都合であったり。

それが、このトワプリや風のタクトにもいえるんだけれども、まさに別れとしか言いようのないものとして経験される。

そのユーザー体験を支えているのは、ストーリーやシナリオは一要素にすぎない。

もっとも重要なのはNPCと長い時間をともに過ごすことであり、その間にNPCに対してどれだけの愛着が抱けるかであると思う。

その関係の構築さえ成功すれば、いざ別れのシーンでどういう演出が効果的であるのかは自然と導かれてくる。

では一体どういうときにユーザーはNPCに愛着を抱くようになるのか。

それを分析しだすとまた長くなりそうなのでしないが、個人でゲームを作る立場として肝に銘じておきたいことがある。

最先端のグラフィックスやマシン性能を軽視して、アイデアやシナリオ、ゲームシステムだけで、これらの経験をもたらすことは、不可能であるか困難であるということ。

そのとき手に入るもの全てを駆使して作られたものに、生命というか、プレイヤーが出会い別れるべき何かが宿るのだということ。

トワプリは、俺がこの先ゲームを作るうえで何度も引き合いにする究極のリファレンスであることは間違いない。

5年前

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