【雑記】ファミコン時代のゲームに学ぶ

今日も特に公表できるような成果はなく、お仕事のプログラミングをしていた。

最近ちょっと考えていることがあって、ファミコン時代のゲームって、ある時期までゲーム中に文章ってあんまり出てこなかったよな、とか。

全てのゲームをしらみつぶしに調べたわけじゃないし、どの時期までかとか厳密に検証したりしたわけではもちろんない。

それは、単純にひとつの直感に基づくものでしかないわけで、その直感とはつまり、ゲームにはゲームの言語ってのがあるんじゃないかってこと。

それは文章で書かれる言語、いわゆる書き言葉とは異なるものだろうけれども、じゃあそれが何かっていうと実はまだあんまり考えはまとまっていない。

とりあえず、なつかしのファミコンソフトのプレイ動画をいくつかピックアップしてみる。

そもそも、俺個人のゲーム史でいうと、ファミコン以外にも、MSXという安価のパーソナルコンピュータでもゲームを遊んでいた。そこでは普通に文章が主体のアドベンチャーゲームもたくさんあった。

なので、ファミコンのゲームに文章が生で、つまりゲームの一要素として登場するアドベンチャーゲームとかドラクエのようなRPGが登場してからはごく普通のことのように受け入れて来たと思う。

ところが、いつからかはわからないけれども、ゲームをプレイしている最中に読まなければならない文章に出くわしたりすると、なんかこう、ゲーム体験が寸断されるような煩わしさを覚えるようになった。

最近は技術も進んできて、生の文章に出くわすよりは、フルボイスでしゃべったり、映画のようなムービーシーンがあったり、読まなければならない文章に出くわすこともだいぶ減ってきたように思う。

しかし、こういう演出にも慣れてくるとだんだん煩わしくなって来ることもある。

観なければ先に進むための情報を見落とすかもしれないのでなるべく見るようにしているけれども、同じステージをプレイする場合なんかはスキップしてすっ飛ばすところを見ると、やっぱりゲームプレイとは別の要素なのかもしれないと思えてくる。

ちなみに上に挙げたゲームはどれも、ゲーム中に文章らしい文章でストーリーを語るような場面は、オープニングやエンディングを除いて、ほとんどないように思う。

なので、何の前知識もなしに、思い出補正も極力無効化して、はじめてみるゲームの気分で動画をみてみると、一体主人公は何の目的で動いているのか、ゲームの進行とともに物語がどういう展開をみせているのか、さっぱり理解できないような気がしないでもない。

もちろん、当時はパッケージにそれなりの分量のある紙の説明書がついていたわけで、ゲームプレイ前にストーリー部分だけでも熟読して気分を高めてたりしたので、当時の自分はその情報を頼りに、目的や展開を予測して遊んでいた可能性もある。

でも、何かそれ以外の、ゲーム自体がもつ説明力というか、プレイしながら何が起きて、次に何をする必要があって、物語がどう進んでいるのかって事を文章のないゲーム画面から読み取ってプレイしていたんじゃないかと思えてならなかったりするのである。

たとえば、ゲームが横にスクロールする。このことひとつだけをとってみても、映画で画面が右から左へパンする、ということ以上の意味がゲームにはあるように思う。

ステージのいたるところにある扉の画像であるとか、場所によって強さや大きさが増す敵やギミックの難易度とか。

中には、それまで遊んできたゲーム体験に依存する暗黙の意味もあるだろう。

たとえば、横スクロールの画面であれば、スクロールロックした画面の床に穴があったら落ちると死ぬ、とかね。

こういう古いゲームを眺めていると、何かゲーム自体が独自で積み上げてきた書き言葉とは異なる特殊な言語のようなものの存在が感じられるとです。

そして、そういうゲーム独自の言語で語られる物語があるとしたら、それはどんな物語体験になるのかということに興味があるのだ。

4年前

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